「感動」という言葉は、日本のメディアにとっては「通貨」のようになっている。視聴者をいかに「感動」させるか、そして視聴率につなげるか。
しかし、そうした風潮によって、日本では「感動」の価値は地に落ちている。きわめて安っぽく、浅薄な言葉になっている。

映画の前評判CMでは、試写会を見たであろう、あまり頭のよくなさそうな一般人が「感動しました」といっている。私などそういわれると意地でも見てやるかと思うが、世間は「テレビで“感動した”と言っているのだから見てみよう」というお人よしがたくさんいるようなのだ。

「日本全国を感動の渦に巻き込んだ」もドラマや小説などでよく聞く言葉だが、こういう評判のある番組や本も、まず買わない。

なぜなら「感動」というのは、本来、きわめて「個人的な感情発露」であるはずだからだ。
「あの人が感動しているから私も感動しなければ」などということは、本来ないのだ。
しかしテレビなどで安っぽい「感動もの」を無批判に見続けていると、頭の留め金がどこかゆるくなって「テレビを見る→感動する」というショートカットができてしまう。
逆に言えば「感動しないものは、いいコンテンツではない」という短絡的な評価にもつながる。
しかもその「感動」とは、個々人の「心の震え」ではなく、メディアのあおりによる「外界の刺激」にあたかも自分が感動したかのように錯覚してしまうことによって起こる「偽物」であることが多い。
いわば「集団催眠」のようなものだ。

民放スポーツ番組の「感動ストーリー」も明らかにそのパターンの上に成り立っている。
しかしそのパターンは、スポーツそのものの中に本来含まれている「感動へと導く要素」を見えにくくする働きをする。
何度も使った表現だが、旬の魚や野菜などの食材が本来持っている「微妙な味わい」を楽しもうという人の料理に、「ほら、こうするとうまいだろ」とケチャップを山盛りぶっかけるようなものだ。
ケチャップの味を「本来の味」と錯覚している人は、食材の本当のおいしさには気が付かない。

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そういう図式だと思うのだ。実はメディアだけでなく、実際のスポーツ観戦も、コロナ以前は、北朝鮮の「人類の祭典」みたいな大応援団で覆いつくされていた。ろくに試合を見ることなく、歌ったりお遊戯したりするファンたちが、家路につきつつ「今日も感動したなあ」と思うようなイベントになっていたのだ。

コロナ禍は大変不幸だが、スポーツ観戦に関しては、大騒ぎする応援がなくなって「本来のだいご味」が楽しめるようになっていたのだ。

ポストコロナの時代には、馬鹿な「感動注入」が多少なりとも収まって、人々がスポーツを自分の感性で観て、それぞれがオーガニックな「感動」をするようになってほしいと思う。



大島康徳、チーム別&球場別&選手別アベックHR数|本塁打大全

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